ヘブル人への手紙6章

上が前田訳で下の太字が口語訳です。

1.そういうわけですから、わたしたちは、キリストの教えの初歩をあとにして、完成に向かって進もうではありませんか。死んだ行いからの悔い改め、神への信仰、

 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、

 

2.浸礼や手を置くことなどに関する教え、死者たちの復活と永遠の裁きなどの基本的なことがらを、再び繰り返すのをやめようではありませんか。

洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。

 

3.神がお許しになるなら、そうしよう。

神の許しを得て、そうすることにしよう。

 

1~3節まで、キリスト教の初歩(行いではなく信仰、バプテスマと献身、死人の状態と再臨のときに復活することすべての人が御前に裁かれること)といいつつ、これらの教理を正確につかんでいるクリスチャンはどれだけいるだろう?実際、パウロの言う初歩を収めているなら、現代においては、どの教会でも役立つクリスチャンだろうと思います。そして、現状の教会では日本のセブンスデー・アドベンチスト教会もこの初歩を繰り返し語らなければいけない状態ではないか・・・と思われます。しかし、パウロはそこから抜け出して次に進むことを宣言します。

 

4.ひとたび光を受けて、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者とせられ、

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、

 

5.神の良き言葉と、来たらんとする世界の力とを味わった者たちが、

また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、

6.(その後)堕落した場合は、神の子を自分たちでまた十字架につけて、公然とさらしものにして辱めるのですから、再び悔い改めて元の状態に戻ることは(できません)。

そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。

 

7.地が、度々その上に降る雨を吸い込み、それによって耕す人々のために役立つ作物をもたらすなら、神からの祝福にあずかります。

たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。

 

8.しかし、地が、いばらやあざみを生えさせるなら、それは無用のものとなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。

 

4節~8節まで、新生の経験までしたものが、完全に逆戻りした場合もう救いはないとパウロはいいます。福音を受けたら良き実を結ばなければならなかったのに、悪い実ばかり結んでいるなら、焼き滅ぼされると、現代のほとんどのキリスト教会の状態にあてはまるような警告をパウロは臆することなく宣言します。ここまで、言わなければいけないほどのパウロの重責と彼の救霊にかける情熱に私自身を省みて考えさせられます。

 

9.しかし、愛する人々よ、こう言っていても、わたしたちは、あなたがたについては、さらに優ったこと、すなわち救いがあると確信しています。

 しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。

10.神は不誠実な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖徒たちにこれまで仕え、また今も仕え続けて、神の御名のために示した愛をお忘れになることはありません。

神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。

 

11.わたしたちは、あなたがた一人ひとりが最後まで望みを満たし続けるために、その同じ熱心さを示し、

わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、

 

12.怠け者とならず、信仰と忍耐とによって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるようにと望んでいます。

怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。

 

9節~12節まで事実ではありますが、かなり厳しい言い方をしましたのでパウロからフォローが入ります。何度か書きましたが、ヘブル人への手紙の読者は熟練したクリスチャンです。ここでのパウロは現状に甘んじることなく前に進むことを促しているのです。前に進まない信仰が堕落につながることを意識してパウロは書いているのです。つまり、今なら間に合うから、熱意をもって前進せよと言っているわけです。

 

13.神がアブラハムに約束されたとき、指して誓うのに、ご自身より大いなる者がいなかったので、ご自身を指して誓って、

さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、

 

14.『わたしは必ずあなたを豊かに祝福し、必ずあなたの子孫を大いに増やす』と言われました。

「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。

 

15.このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを受けたのです。

このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。

 

16.人間は、自分より偉大なものを指して誓います。そして、その誓いは、あらゆる反対論を終らせ、確信を持つに至らせます。

 いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。

17.神は、約束を受け継ぐ人々に、その計画が変わらないことをいっそうはっきり示したいと望まれ、誓いによって保証されたのです。

そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。

13節~17節で、ようやく初歩からすすんだ内容の解説にはいります。そして、最初の講義は「神の誓い」についてです。誓いというのは、「すべての反対論を封じる保証」であることに注目させます。神様ご自身が誓うということがどういうことか読者に改めてそれがどれほどすごいことか再考を求めています。

 

18.それは二つの不変の事がらによって、―その二つの事において、神は偽ることがお出来になりませんー前に置かれている望みを捕らえようと(世を)逃れて来たわたしたちが、力強い慰めを得るためです。

それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。

 

「二つの不変の事がら」とは何ですか?これが、6章の中で私が一番重要と考える学びです。なぜなら、このことがわかれば次の19節が容易にわかるようになるからです。

そこで、二つが何か前の文脈を追います。一つは「ご計画の不変」とあることから神様の計画ということがわかります。もう一つは?「ご計画が不変であることを宣言した神様の誓い」ではないでしょうか?ここは、神様の誓いに込められた情熱の熱量とそれを受けて語るパウロの熱量を受け止めなければいけません。そこで、もう一度、アブラハムと約束した誓いを見てみましょう。14節に「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」とあります。アブラハムの子孫とは何ですか?信仰によってイエス様に救われ天国に行く人たちにほかなりません。つまり、ここで、アブラハムに誓うことはイエス様を十字架にかけることを意味していたのです。15節を見ると不思議です。「アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得た」とありますが、アブラハムが死ぬまでの間に彼の子孫(イサクの子孫)はそれほどの人数ではなかったはずです。ではアブラハムは何を受け取ったのでしょうか?ここで、アブラハムは救いの全体系と神の愛の確証を受け取ったのです。それは誓われた方が真実であるということの確証によったのです。ここまで、理解すると19節が理解できます。

 

19.わたしたちが持っているこの望みは、たましいを安定させ、不動のものとするいわば錨のようなものであって、垂れ幕の内側に入り行かせるものです。

この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。

 

約束されたかたが真実であり、約束したことがわたしの救いであるということを悟ったとき、いったいどれだけわたしたちの心は安心することでしょう。絡みつく罪がほどける信仰が生まれないわけにはいきません。それだから、罪のないイエス様がおられるところ、罪びとのために奉仕するところ、つまり聖所の中に入っていけるのです。

 

20.その場所に、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたイエスが、先駆者としてわたしたちのために入られたのです。

その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。

 

エス様はご自身の血をもって聖所の中に入っていかれました。なぜですか?わたしたちを許すことができる血を得られたからです。そして、イエス様の許しがあるから、わたしたちもイエス様のおられるところに入っていくことができるのです。イエス様は何で聖所におられるのですか?わたしたちの罪を処理するためです。だから、罪を犯したわたしたちも、悔い改めたものを許すことのできる神様の誓いを信じてイエス様のところにいくことができるのです。下に前田訳による解説がありますが、イエス様がこの時代入られた場所は聖所の第一の部屋、パンと燭台と香の祭壇のある部屋です。大祭司のこの動きは、贖罪の働きを理解する上で役に立つこと、また1844年10月22日にイエス様が至聖所に入られたというセブンスデー・アドベンチストの聖所の教理の土台を抑えるためにもここは押さえておきましょう。

 

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★「垂れ幕の内側」(19)τὸ ἐσώτερον τοῦ καταπετάσματος
  この垂れ幕は①聖所と至聖所の間を隔てている幕、②聖所の入口にある幕、の両者
に適用可能であるが、ヘブライ9:3で「第二の幕」と区別していることから、ここでは②の聖所の入口にある幕と解釈するのが正しいようである。