ヘブル人への手紙3章

第3章

3:5さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、 3:6キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。 3:7だから、聖霊が言っているように、
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8荒野における試錬の日に、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
3:9あなたがたの先祖たちは、
そこでわたしを試みためし、
3:10しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。
だから、わたしはその時代の人々に対して、
いきどおって言った、
彼らの心は、いつも迷っており、
彼らは、わたしの道を認めなかった。
3:11そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。
3:12兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 3:13あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。 3:14もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。 3:15それについて、こう言われている、
「きょう、み声を聞いたなら、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
3:16すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。 3:17また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。 3:18また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。 3:19こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
 
*1章でイエス様の神性、2章でイエス様の血によって受ける救われた者の恵みに焦点をあてましたが、3章では、一転して、今日、恵みのあるうちにあなたは悔い改めなさいと神様は言われます。7節~11節と11節~19節はほとんど同じ内容のことを2度言っています。パウロは1章2章で布石をうちましたが、3章の内容を特に言いたかったに違いありません。
 荒野で神に逆らったヘブルびとの運命をみて賢く悟りあなたが今なすべきことを選びなさいとやさしく呼びかけられます。ここでは、18節に注目しましょう。「神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。」罪のうちにある魂には安息がありません。神様が入らせないのではないのです。むしろ罪を愛することによってわたしたちが入らないのです。神様の戒めのうちにないなら、いつまでたっても心休まる人生はそこにはないのです。人生に疲れていませんか?いい加減にその重荷をおろしてはどうでしょうか?わたしには神様から賜わるこの安息が慕わしく見えます。神様が自らの子と呼ぶ者たちの幸せを願わないで言葉を発することがあるでしょうか?すべての神様の言葉には子にたいする愛情が込められているのです。もし、その言葉に喜んで従うなら確かにみ言葉のうちに神様の愛があることを私たちは知るでしょう。