終末のタイムライン その1

定められた終りの時 のタイムライン

2020/11/2~ 小湊

 

ある方から、終末の出来事をタイムラインにして示してほしいと依頼を受けました。学べば、学ぶほど、思った以上に複雑に黙示録の記事の順序が入り組んでいることを感じておりますが、この依頼は、御心にかなったものであると感じましたので、決定版には程遠い状態ですが現状のわたしのできる範囲で書きたいと思います。

 

父なる神様 御名があがめられますように どうか僕の器を清め わたしたちを憐れんでくださって終りの時の順序について示してください この祈りを愛するイエス様の御名によりお祈り申し上げます アーメン

 

タイムラインをつくるとき私は、この聖句に基づいてことを起こそうと思います。

 

「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。」ハバクク2:2

 

この幻はヘブル語でハーゾーンと言われる幻で、それは、最終時代にサタンが聖徒を迫害する幻をさします。

 

わたしは個人的のこれを、終末の諸事件をチャートにしてみんなに理解できるようにせよとのご命令と受け取っています。これがわたしが冒頭で御心にかなうと思ったのです。

終末のチャートは、ただ一つの時について示したものですが、聖書のいたるところに散らばっているので、見つけようと思えばたくさんでてきます。

 

個人的に一番好きなチャートはダニエル書1章から6章のチャートです。これは、その時、聖徒がどのようにふるまえばよいかお手本がしめされている点が特に気に入っています。では、最初のチャートです。

 

①~⑥の順序で終末の事件がすすんでいきます。

 

  • ダニエル書1章:教会合同運動がセブンスデー・アドベンチストに来ました。まず健康改革をはじめましょう!
  • ダニエル書2章:世の終わりはまじかです!ダニエル書と黙示録の預言のメッセージを解読しましょう!
  • ダニエル書3章:日曜休業令が来ます。その時は、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤの模範にしたがって火のような試練を受け入れましょう!
  • ダニエル書4章:日曜休業令が来るとネブカデネザルがそうでしたが獣ように扱われます。しかし、そのときになると「主のみ前から慰めの時がきて」「罪をぬぐい去」られるので(使徒3:19、20)ネブカデネザルが全世界にむけて神のみわざをほめたたえたように、ヨナがにニネべを改心させたように、「大いなる叫び」が起こります。
  • ダニエル書5章:これが示すものは、恩恵期間の終了です。ネブカデネザルの証は「大いなる叫び」でした。これをまじかで見て悔い改めないなら、ベルシャザル王のようにもう救いはありません。この時、ダニエルは罪を宣告することしかできませんでした。
  • ダニエル書6章:これが示す時は、「死の法令」その日時がきたら、第七日安息日を殺しても良いという法令がでます。しかし、ダニエルがししの口から救われたように聖徒も救われるでしょう。

 

第二番目にヨナのチャートを示します。これは、ダニエルたちのような模範になる状態で終末を迎えた信者ではないです。ほんとに手遅れになる寸前で、それでも第七日安息日が迫害の対象になること知ったうえでそれを受け入れるだけの信仰をその時に持っていた者のチャートです。上のダニエル書の数字と対応させるため③-2を入れました。

 

  • ヨナ書1章1~3節:ヨナ船賃を払って異教徒と一緒へ御心でない目的の船に乗る。これは教会合同運動にセブンスデー・アドベンチストが参加することを意味します。
  • ヨナ書1章4~6節:終末の諸事件が異教徒たちを先に改心させ、熟睡していたセブンスデー・アドベンチストを起こす。
  • ヨナ書1章7~15節:日曜休業令、ヨナは創造主を信じがゆえに、嵐の海に投げ込まれました。セブンスデー・アドベンチストが安息日についてあくまで遵守するなら全世界から迫害に会うでしょう。

③—2ヨナ書2章1~9節:密室の祈り(日曜休業令のはじまりから恩恵期間の終了まで、小さなヤコブの悩みの時といわれますが、そのときする聖徒の祈りが書かれています。)この試練とこの祈りによって、完全に清める状態が用意され、そして、罪の除去が行われます。

 

  • ヨナ書3章 :「大いなる叫び」について書かれています。罪の除去が行われた聖徒つまり144000が行う世の終わりの最後の福音伝道です。

 

他にもチャートは作れると思いますが、わたしが一番把握しているこの2つのチャートを使って、ダニエル書の8章以降の預言と黙示録の預言を上の①~⑥までの数字にあてはめていきたいと思います。

 

ヘブル人への手紙6章

上が前田訳で下の太字が口語訳です。

1.そういうわけですから、わたしたちは、キリストの教えの初歩をあとにして、完成に向かって進もうではありませんか。死んだ行いからの悔い改め、神への信仰、

 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、

 

2.浸礼や手を置くことなどに関する教え、死者たちの復活と永遠の裁きなどの基本的なことがらを、再び繰り返すのをやめようではありませんか。

洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。

 

3.神がお許しになるなら、そうしよう。

神の許しを得て、そうすることにしよう。

 

1~3節まで、キリスト教の初歩(行いではなく信仰、バプテスマと献身、死人の状態と再臨のときに復活することすべての人が御前に裁かれること)といいつつ、これらの教理を正確につかんでいるクリスチャンはどれだけいるだろう?実際、パウロの言う初歩を収めているなら、現代においては、どの教会でも役立つクリスチャンだろうと思います。そして、現状の教会では日本のセブンスデー・アドベンチスト教会もこの初歩を繰り返し語らなければいけない状態ではないか・・・と思われます。しかし、パウロはそこから抜け出して次に進むことを宣言します。

 

4.ひとたび光を受けて、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者とせられ、

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、

 

5.神の良き言葉と、来たらんとする世界の力とを味わった者たちが、

また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、

6.(その後)堕落した場合は、神の子を自分たちでまた十字架につけて、公然とさらしものにして辱めるのですから、再び悔い改めて元の状態に戻ることは(できません)。

そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。

 

7.地が、度々その上に降る雨を吸い込み、それによって耕す人々のために役立つ作物をもたらすなら、神からの祝福にあずかります。

たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。

 

8.しかし、地が、いばらやあざみを生えさせるなら、それは無用のものとなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。

 

4節~8節まで、新生の経験までしたものが、完全に逆戻りした場合もう救いはないとパウロはいいます。福音を受けたら良き実を結ばなければならなかったのに、悪い実ばかり結んでいるなら、焼き滅ぼされると、現代のほとんどのキリスト教会の状態にあてはまるような警告をパウロは臆することなく宣言します。ここまで、言わなければいけないほどのパウロの重責と彼の救霊にかける情熱に私自身を省みて考えさせられます。

 

9.しかし、愛する人々よ、こう言っていても、わたしたちは、あなたがたについては、さらに優ったこと、すなわち救いがあると確信しています。

 しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。

10.神は不誠実な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖徒たちにこれまで仕え、また今も仕え続けて、神の御名のために示した愛をお忘れになることはありません。

神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。

 

11.わたしたちは、あなたがた一人ひとりが最後まで望みを満たし続けるために、その同じ熱心さを示し、

わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、

 

12.怠け者とならず、信仰と忍耐とによって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるようにと望んでいます。

怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。

 

9節~12節まで事実ではありますが、かなり厳しい言い方をしましたのでパウロからフォローが入ります。何度か書きましたが、ヘブル人への手紙の読者は熟練したクリスチャンです。ここでのパウロは現状に甘んじることなく前に進むことを促しているのです。前に進まない信仰が堕落につながることを意識してパウロは書いているのです。つまり、今なら間に合うから、熱意をもって前進せよと言っているわけです。

 

13.神がアブラハムに約束されたとき、指して誓うのに、ご自身より大いなる者がいなかったので、ご自身を指して誓って、

さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、

 

14.『わたしは必ずあなたを豊かに祝福し、必ずあなたの子孫を大いに増やす』と言われました。

「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。

 

15.このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを受けたのです。

このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。

 

16.人間は、自分より偉大なものを指して誓います。そして、その誓いは、あらゆる反対論を終らせ、確信を持つに至らせます。

 いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。

17.神は、約束を受け継ぐ人々に、その計画が変わらないことをいっそうはっきり示したいと望まれ、誓いによって保証されたのです。

そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。

13節~17節で、ようやく初歩からすすんだ内容の解説にはいります。そして、最初の講義は「神の誓い」についてです。誓いというのは、「すべての反対論を封じる保証」であることに注目させます。神様ご自身が誓うということがどういうことか読者に改めてそれがどれほどすごいことか再考を求めています。

 

18.それは二つの不変の事がらによって、―その二つの事において、神は偽ることがお出来になりませんー前に置かれている望みを捕らえようと(世を)逃れて来たわたしたちが、力強い慰めを得るためです。

それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。

 

「二つの不変の事がら」とは何ですか?これが、6章の中で私が一番重要と考える学びです。なぜなら、このことがわかれば次の19節が容易にわかるようになるからです。

そこで、二つが何か前の文脈を追います。一つは「ご計画の不変」とあることから神様の計画ということがわかります。もう一つは?「ご計画が不変であることを宣言した神様の誓い」ではないでしょうか?ここは、神様の誓いに込められた情熱の熱量とそれを受けて語るパウロの熱量を受け止めなければいけません。そこで、もう一度、アブラハムと約束した誓いを見てみましょう。14節に「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」とあります。アブラハムの子孫とは何ですか?信仰によってイエス様に救われ天国に行く人たちにほかなりません。つまり、ここで、アブラハムに誓うことはイエス様を十字架にかけることを意味していたのです。15節を見ると不思議です。「アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得た」とありますが、アブラハムが死ぬまでの間に彼の子孫(イサクの子孫)はそれほどの人数ではなかったはずです。ではアブラハムは何を受け取ったのでしょうか?ここで、アブラハムは救いの全体系と神の愛の確証を受け取ったのです。それは誓われた方が真実であるということの確証によったのです。ここまで、理解すると19節が理解できます。

 

19.わたしたちが持っているこの望みは、たましいを安定させ、不動のものとするいわば錨のようなものであって、垂れ幕の内側に入り行かせるものです。

この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。

 

約束されたかたが真実であり、約束したことがわたしの救いであるということを悟ったとき、いったいどれだけわたしたちの心は安心することでしょう。絡みつく罪がほどける信仰が生まれないわけにはいきません。それだから、罪のないイエス様がおられるところ、罪びとのために奉仕するところ、つまり聖所の中に入っていけるのです。

 

20.その場所に、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたイエスが、先駆者としてわたしたちのために入られたのです。

その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。

 

エス様はご自身の血をもって聖所の中に入っていかれました。なぜですか?わたしたちを許すことができる血を得られたからです。そして、イエス様の許しがあるから、わたしたちもイエス様のおられるところに入っていくことができるのです。イエス様は何で聖所におられるのですか?わたしたちの罪を処理するためです。だから、罪を犯したわたしたちも、悔い改めたものを許すことのできる神様の誓いを信じてイエス様のところにいくことができるのです。下に前田訳による解説がありますが、イエス様がこの時代入られた場所は聖所の第一の部屋、パンと燭台と香の祭壇のある部屋です。大祭司のこの動きは、贖罪の働きを理解する上で役に立つこと、また1844年10月22日にイエス様が至聖所に入られたというセブンスデー・アドベンチストの聖所の教理の土台を抑えるためにもここは押さえておきましょう。

 

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★「垂れ幕の内側」(19)τὸ ἐσώτερον τοῦ καταπετάσματος
  この垂れ幕は①聖所と至聖所の間を隔てている幕、②聖所の入口にある幕、の両者
に適用可能であるが、ヘブライ9:3で「第二の幕」と区別していることから、ここでは②の聖所の入口にある幕と解釈するのが正しいようである。

ヘブル人への手紙 5章

 

前田滋彦の新約聖書ギリシヤ語原典翻訳

ヘブライの人々への手紙5章から

1.大祭司はみな、人々の中から選ばれ、罪のための供え物や犠牲をささげるために、人々に代わって神に仕える務めに任命されています。2.彼自身も弱さを身に負っているので、間違って罪を犯す人々や、さ迷っている人々を思いやることができるのです。3.その弱さのゆえに、彼は、民のためと同じように、自分自身のためにも、罪のための捧げものをしなければならないのです。4.また、だれもこの栄誉ある務めを自分で得るのではなく、アロンの場合と同じように、神によって召しを受けるのです。

5.このように、キリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、

『あなたはわたしの子、

今日、わたしはあなたを生んだ

と、彼に言われたかたが、それをお与えになったのです。

6.また、ほかの箇所でもこのように言われています。

『あなたは永遠に、

メルキゼデクの位に等しい祭司』。

7.キリストは、その地上の生活の間は、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力あるかたに祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられたのです。8.彼は御子であるにもかかわらず、そのさまざまな苦しい経験によって従順を学び、9.完全な者とされたので、彼に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、10.神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司と呼ばれたのです。

 

11.このことについては、話す言葉が沢山ありますが、(あなたがたの)耳が鈍くなっているので説明するのが困難です。12.なぜなら、あなたがたは長い間、教師でいるべきはずなのに、もう一度だれかに、神の言葉の初歩を教えてもらう必要があるからです。あなたがたには固い食べものではなく、乳が必要です。13.乳を飲んでいる者はすべて、義の言葉を味わうことができません。彼はまだ幼児なのですから。14.固い食物は、判断力を働かせて、善悪を識別する訓練を受けて成長した人たちのものなのです。

 

口語訳聖書 ヘブル人への手紙

第5章

5:1大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。 5:2彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、 5:3その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。 5:4かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。 5:5同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、
「あなたこそは、わたしの子。
きょう、わたしはあなたを生んだ」
と言われたかたから、お受けになったのである。 5:6また、ほかの箇所でこう言われている、
「あなたこそは、永遠に、
メルキゼデクに等しい祭司である」。
5:7キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 5:8彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 5:9そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、 5:10神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。
5:11このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。 5:12あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 5:13すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。 5:14しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。
 
ネット上で「前田滋彦の新約聖書ギリシヤ語原典翻訳」と検索をかければ、彼の新約聖書の翻訳を読めます。今日、彼のヘブル人への手紙の翻訳の1章~5章まで読んでみましたが、ほとんど口語訳聖書と同じなのに、すっと頭の中に入ってくるようで、彼の学びに敬意を称し紹介させていただきました。一度、彼の翻訳聖書を読んでみる価値はありそうです。
 
さて、今日は、ヘブル人5章を学びましょう。
1章と2章でキリストの神性について万物の創造者であり統治者であり罪のかせをたちきる勝利者であることを確認し、3章では、今日という日に悔い改めることを呼びかけ、4章で、悔い改めたものに安息日の休みが与えられていることが示されました。
そして、5章のテーマですが、さらに踏み込んで、4章の安息がどのように与えられたか知ることになる。大祭司としての資格について学びます。注目すべきは、2節のこの言葉です。「彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる」この布石が、7節~10節を理解する上で役立ちます。「5:7キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 5:8彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 5:9そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、 5:10神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。」大祭司になるための資格は、人の弱さでした。
エス様は、心臓が破裂するほどの罪を負いながらご自身の内にもたれている神の力を使う誘惑に絶えず耐えただ御父にのみ全的に信頼をおき頼る祈りによって私たちが安息に入ることができるようにしました。
そして、ここまで説明した上で、パウロは、情熱を失ったクリスチャンたちを譴責します。「5:11このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。 5:12あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。」
わたしたちセブンスデー・アドベンチストは、ヘブル人への手紙のメッセージを本当に受け取っているでしょうか?主が招いている安息日は、魂を罪から解放することであるのに、なぜ気が付かないのか?しかし、気付いたのなら、わたしたちは、悟るでしょう
キリストのように、「激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ」るなら必ずその祈りは聞かれることを、もはや、われわれは、われわれのために祈りません。主の愛に答えるために祈るのです。

ヘブル人への手紙4章

第4章

4:1それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 4:2というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 4:3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、
「わたしが怒って、
彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」
と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。 4:4すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、 4:5またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。 4:6そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、 4:7神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、
「きょう、み声を聞いたなら、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
ダビデをとおして言われたのである。 4:8もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。 4:9こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。 4:10なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。 4:11したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。 4:12というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 4:13そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
4:14さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 4:15この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 4:16だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
 
 
*この章では、3章の悔い改めをとおして賜る安息とは何か?さらに深く解説が入ります。どうやら鍵は第七日安息日が握っているようです。この章はセブンスデー・アドベンチストとして深く探る必要があるようです。まず1節「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続している」・・・そんな約束あるならぜひとも受け取りたいものです。次のヒントを探します。2節「わたしたちにも福音が伝えられている」・・・「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったから」・・・ということは、福音のみ言葉と信仰が結び付いたとき「安息」を賜ることができるようです。それでもまだ情報が足りないですね次を見ましょう。
3節「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」2節で出した結論が正解であることが確認できました。さて問題は次の聖句です。「しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。」パウロは、天地創造の最終日である第七日安息日に目を向けさせます。福音というのは、創造当初アダムがいたエデンの園に帰れるということです。エデンの園には安息がありました。なぜでしょうか?神様に対する絶対の信頼があったからです。しかし、蛇を通してサタンによって、わたしたちのこの信頼が不信に変えられました。この世の常識あるいはこの世の快楽が邪魔をして、神様のみ言葉を信じることあるいは従うことができないのです。だからパウロは、常識ではなくみ言葉を勧めてこの手紙において3度目になりますが、この聖句を引用するのです。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」わたしにはこう聞こえます。「世間の常識ではないですよ。従うべきは、み言葉ですよ。自分を喜ばす道ではないですよ。進むべきは神様を喜ばす道ですよ。」ふたつの声が人のなかで争います。
いったいどうすればよいのでしょうか?わたしはその鍵を次の聖句に見出します。「神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。 」ついに自我が自らを主とすることを放棄しました。イエス様を自らの主としたその時、エデンの園のときアダムにあった安息がわたしたちに帰ってきました。わたしたちの心に神様にお会いする時が確保されました。「安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。(申命記5:12~15)」今までは、救われる目的で安息日を守っていたかもしれませんが、今は違います。神様にお会いするのが一番楽しいから神様の指定されたこの時に神様に会いにいくのです。わたしたちは、もはや罪に縛られていないので安息日を楽しむのです。今は神様との間を隔てるものがないので、安息日をつくられた私たちに対する神様の愛の動機がよくわかるのです。
 
「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。」
わたしには、上記の聖句によってパウロが日曜休業令について暗示していると思いますが、皆さんどう思われますか?ヘブル人への手紙が終末のクリスチャンに宛てられた手紙であることは疑う余地がありません。そして、そのうちの1章がまるまる第七日安息日にテーマをあてているのです。ご存じの通り世の終わりに第七日安息日を守ることは困難になります。しかし、そのときこそこそ安息日を守る祝福は大きくなるでしょう。
なぜなら聖書に「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」と書いてあるからです。
この章の最後の聖句で「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」と勧められます。恵みの御座のその直下に第七日安息日が神様の指によって書かれた十誡の石の板があることを、ご存じでしたか?わたしたちは第七日安息日を守ることによって恵みの御座に近づこうではありませんか。イエス様は、神様と人との正しい関係(十誡)のために血を流されたのですから・・・
 
 

ヘブル人への手紙3章

第3章

3:5さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、 3:6キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。 3:7だから、聖霊が言っているように、
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8荒野における試錬の日に、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
3:9あなたがたの先祖たちは、
そこでわたしを試みためし、
3:10しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。
だから、わたしはその時代の人々に対して、
いきどおって言った、
彼らの心は、いつも迷っており、
彼らは、わたしの道を認めなかった。
3:11そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。
3:12兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 3:13あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。 3:14もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。 3:15それについて、こう言われている、
「きょう、み声を聞いたなら、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
3:16すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。 3:17また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。 3:18また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。 3:19こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
 
*1章でイエス様の神性、2章でイエス様の血によって受ける救われた者の恵みに焦点をあてましたが、3章では、一転して、今日、恵みのあるうちにあなたは悔い改めなさいと神様は言われます。7節~11節と11節~19節はほとんど同じ内容のことを2度言っています。パウロは1章2章で布石をうちましたが、3章の内容を特に言いたかったに違いありません。
 荒野で神に逆らったヘブルびとの運命をみて賢く悟りあなたが今なすべきことを選びなさいとやさしく呼びかけられます。ここでは、18節に注目しましょう。「神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。」罪のうちにある魂には安息がありません。神様が入らせないのではないのです。むしろ罪を愛することによってわたしたちが入らないのです。神様の戒めのうちにないなら、いつまでたっても心休まる人生はそこにはないのです。人生に疲れていませんか?いい加減にその重荷をおろしてはどうでしょうか?わたしには神様から賜わるこの安息が慕わしく見えます。神様が自らの子と呼ぶ者たちの幸せを願わないで言葉を発することがあるでしょうか?すべての神様の言葉には子にたいする愛情が込められているのです。もし、その言葉に喜んで従うなら確かにみ言葉のうちに神様の愛があることを私たちは知るでしょう。
 
 

ヘブル人への手紙2章

第2章

 2:3わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。・・・・
 
 2:6聖書はある箇所で、こうあかししている、
「人間が何者だから、
これを御心に留められるのだろうか。
人の子が何者だから、
これをかえりみられるのだろうか。
2:7あなたは、しばらくの間、
彼を御使たちよりも低い者となし、
栄光とほまれとを冠として彼に与え、
2:8万物をその足の下に服従させて下さった」。
「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。 2:9ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 2:10なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 2:11実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。 2:12すなわち、
「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、
教会の中で、あなたをほめ歌おう」
と言い、 2:13また、
「わたしは、彼により頼む」、
また、
「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」
と言われた。 2:14このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 2:15死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 
 
*2章は、スケールが大きすぎて御霊によって示していただかなければ、この恵みの大きさをとらえきれないところです。本当は2章全部を解説したいのですが、そうするとかえってわかりにくくなるので、神様にとって人という存在がどれだけ特別なものであるかその愛を強調するところだけ抜き取ってみました。9節~15節まで、「万物を造られた方」が、造った者たちをどれほど愛しているか示すために「すべての人のために死を味わわれ」ました。それによって何が起こりましたか?「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」わたしたちが栄光の神様の兄弟とされたのです。うそだろ?・・・そうですね信じられないですよね。しかし聖書は続けて語ります。「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 」イエス様が罪びとのかわりに死んだからもう罪に縛られる必要はないですよ。あなたたちを閉じ込めていた罪の牢屋はもうないのですよ。あなたたちは血によってイエス様の兄弟となったのだからそこからでて彼のことをあかししなさい。
わたしの耳にこれらの聖句がこのように語りかけるのです。
 
 
 

ヘブル人への手紙1章

ヘブル人への手紙

第1章

 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 1:3御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
 
 1:5いったい、神は御使たちのだれに対して、
「あなたこそは、わたしの子。
きょう、わたしはあなたを生んだ」
と言い、さらにまた、
「わたしは彼の父となり、
彼はわたしの子となるであろう」
と言われたことがあるか。
 
 1:6さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、
「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」
と言われた。
 
*ヘブル1章のテーマは、イエス様が神様であることの確認です。そのことを確認するのに上記4節だけ残しました。 2節で創造主であり、3節で贖い主であることを確認しており、6節には、御父が断腸の思いでイエス様を地に送り出す風景がありますが、父なる神様と子なる神様と聖霊の神様は、唯一の神様であり、その御名は一つだけでしたが、5節によると、イエス様が人となるために「イエス」というお名前が与えられたことがわかります。
 
聖書の中でもこれほど雄弁にイエス様が何者なのか答えているところはないのではないでしょうか。