詩篇119篇8節

わたしはあなたの定めを守ります。わたしを全くお捨てにならないでください。(詩篇119:8)

「わたしはあなたの定められたことを守ります。わたしを全くお捨てにならないでください。」では、ダビデは、神様の愛を十分しているはずなのに、どうしてここで、「わたしを全くお捨てにならないでください。」というのでしょうか?このあたりがこの聖句を解くカギになりそうです。

わたしをまったくお捨てにならないでくださいの英語ですが、O forsake me not utterly このforsakeという単語が気になりましのでひいてみました。「見捨てる、見放す」でとくにヒントはありませんでした。

スタディバイブルの索引で調べましたが、あかしのふみにも、この4節~8節の解説は特にないようですね。

はじめ、この聖句は、あまり深くわかってはいけない系のものだと思っていました。つまり、神様に見放されるような罪を犯してしまった経験が、「わたしを全くお捨てにならないでください。」言わせてしまったのではないか?しかし、これを、ここに書いた瞬間に違和感がありました。そして、悟りました。この聖句は、日曜休業令を前にして、それでも、神様の戒めを守るという決意をしたものが、語る聖句だったのです。

 

「(たとえどのようなことがあっても最後まで)わたしはあなたの定めを守ります。(最後までわたしが信仰を守れるように)わたしを全くお見捨てにならないでください。」

 

詩篇119篇7節

わたしは、あなたの正しいおきてを学ぶとき、正しい心をもってあなたに感謝します。(詩篇119:7)

 

この「おきて」ですがKJVでは「judgments」です。原語で聖書検索で調べてみましたが、ほぼjudgmentsで使用されていますが、申命記などでやはり「おきて」で訳されています。日本語的に「さばきを覚えよ」というより「おきてを覚えよ」という方がわかりやすいからでしょう。しかし、このおきてに「さばき」の要素があることは間違いありません。このように調べていくと、ダビデが学んでいるのが、聖所の学びであることがわかります。ちょっと意訳してみましょうか。

「わたしは、あなたの正しく(罪を処理される)聖所のさばきについて学ぶとき、(自分の救いに関する恐れからではなく、心からの感嘆と称賛と喜びの)正しい動機であなたに感謝します。」

どなた、神のさばきを恐れている人はいますか?でしたら、正しい動機で神様を賛美できるように聖所について聖書を調べてみませんか?そうすれば、ダビデがそうであったように、心からの感嘆と称賛と喜びによる正しい動機で神様に感謝をささげることができるでしょう。

詩篇119篇5節6節

どうかわたしの道を堅くして、あなたの定めを守らせてください。(詩篇119:5)

この聖句ですが「わたしの道」のところがKJVだと「my ways」なんですよね。これ複数形の道なのが気になって気になってしょうがない。娘の部屋にヘブライ語のインターリニア聖書があったかな?今の時間帯だと迷惑になるのであとで・・・更新することを前提として現状ベストをつくします。弥永先生の翻訳した聖書をみつけましたので、1~8節まで掲載します。

ヘブライ語アルファベットの歌)

アレフ

1 幸いです、自分の道を全うして、主の律法の中を歩む者は。

2 幸いです、主の証を守り、心を尽くして主を求める者は。

3 彼らはまた、不義を行ないません。彼らは主の道に歩みます。

4 あなたは私たちに、あなたの諭しを熱心に守るように命じられます。

5 ああ、あなたの定めを守るように、わたしの歩みが確立されていたら良いのに。

6 あなたのすべての戒めに目を留める時、私は恥をかきません。

7 あなたの正しい裁きを学んだ時、私は正しい心をもってあなたをほめ称えるでしょう。

8 あなたの定めを守ります。私を完全に見捨てないでください。

 

弥永先生は、ヘブル語の原語の流れにできるだけ忠実に訳そうこころがけておられたのでしょうから:5 ああ、あなたの定めを守るように、わたしの歩みが確立されていたら良いのに。 という翻訳は参考になります(5節のこの訳はKJVの翻訳の適訳です)。ここで、神様に対する思いがあふれて、言葉が口をついてでてきたという印象を受けます。どんだけ、どれだけ、どれほど神様の定めた律法を愛しているのか。原語がこうだとして、口語訳は、「どうかわたしの道を堅くして、あなたの定めを守らせてください。」となります、訳者は、この形は、神に対する祈りに違いない、いや祈りでしか訳せないと判断したはずです。こういうのは、大きな学びになります。わたしは、この聖句をわかりやすく解説してほしいといわれたとき、10回すると毎回同じことをいうとは限りません。言葉の中にいろんな意味があってそれを表すときにでてくる言葉は氷山の一角の気がするからです。だから、この聖句のこの意味がわからないと質問される方がまだ答えやすいのです。

それでわたしは、弥永訳と口語訳が一つの訳として見えるのです。

すなわち、こころで「ああ、あなたの定めを守るように、わたしの歩みが確立されていたら良いのに。」と感じながら、その思いがこらえきれずわたしのくちびるは「どうかわたしの道を堅くして、あなたの定めを守らせてください。」と祈るのです。そして、祈りとはかくありたいと思うのです。

 

 

わたしは、あなたのもろもろの戒めに目をとめる時、恥じることはありません。(詩篇119:6)

 

こういった聖句を目にすると、わたし自身の欠点があからさまになり、わたしは本当に恥ずかしくなります。いかに神様の戒めを目にとめず生活していたことを思い出させるからです。ヤコブの手紙のみ言葉を思い出します。

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」ヤコブ1:22~25

 

 

 

詩篇119篇4節

あなたはさとしを命じて、ねんごろに守らせられます。

 

さとしとねんごろという言葉が難しいですので、調べてみます。

さとしは英語聖書キングジェームスバージョン(以下KJVと略します) によるとprecepts です。

precept 【名】 〈文〉〔道徳的指針としての〕教え、教訓、処世訓 《法律》令状 

別の辞書で引くと:教訓、訓示、勧告 とあります。

ねんごろはKJVではdiligentlyで意味は、:〔人が〕勤勉な、熱心な、精を出す、精勤する〔作業などが〕入念な、丹念な   

ねんごろという言葉にあたるヘブル語は「原語で聖書検索」で調べると278か所ありveryあるいはgreatlyあるいはexceedinglyあるいはexceedingあるいはsoreあるいはmuchあるいはmighty あるいはlouderあるいはgood あるいはgreat・・・他にもあるかもしれませんが、引用はveryが一番多いですね。その程度が通常より大きいことを表現する言葉のようです。

というわけで、詩篇119:4を私訳しますが、

「あなたは教訓を命令され、(その教訓を)熱心に守らせられます。」

それでは、その教訓とはなんだろう?と考えるとやはり十誡にいきつきます。

事実この単語は原語で聖書検索では24か所でてくるのですが、statutes(法令)、commandments(十誡、戒め)と訳されているところもあります。

「あなたは十誡を命じて熱心に守らせられます。」

としてもよいかもしれません。

 

わたしは、この神様の熱心さについて思い当たることがあります。

わたしは二人のかわいい娘の親ですが、もう中学生と高校生なので、ダメだしする際には、その人格を尊重し、最終的な決定権は彼女たちに任せる方法で、なぜわたしがそうしてほしいのか、それをしたらどうしてだめなのか教える方法でないとうまくいかないことに気付きました。考えて見ると、わたしの神様もわたしを尊重してくださり、聖書を通してダメなものはダメだと教えてくださり、それでいて完全にわたしの自由を尊重してくださるのです。本当に危険なことは、さまざまな方法を通して、わたしのやりたいそのことをできないようにし、よくないことであっても経験した方がそれをやめるのに近道になる場合、或いはダメであってもその思いがあまりにも強い場合、させてくださる場合があります。そんなとき、当然みじめなつらい思いをするのですが、反省し悔い改めてその道を離れるなら、すぐに神様は祝福してくださいます。神様はそのように「さとしを命じてねんごろに守らせられ」るのです。

 確かに、人が学習するのは成功よりも失敗した時ですが、罪に関していうなら、その失敗が致命傷になることも多々あります。クリスチャンは自分の欲望に負けて罪を犯しますが、神様はそのたびに、もし立ち返って聖書を読むならどこで間違えて、どう立ち返ったらよいのか教えてくださいます。もしかしたら、ダビデはここで自分が神様の道から踏み外れてしたときのことを思い出し、その時、神様がどのようにして正しい道に導き返してくれたか思い出していたかもしれません。もしそうであるならダビデは神様の道から外れることがどういうことか学びました。そして、最終的に神様が自分に対する愛からすべての言葉を出されたことに気付くのです。神様に従うことがいかに幸せなことか悟るのです。ダビデは、十誡が前にもまさって好きになったはずです。そのようにこの聖句を読んだ時、わたしは懐の大きな取り扱いをなさる神様のことがもっと好きになりました。

あなたはさとしを命じて、ねんごろに守らせられます。

 どうですか?ダビデの情熱が心に迫ってきませんか?

 

 

 

詩篇119編1節~3節

おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。(1節)

主のもろもろのあかしを守り心をつくして主を尋ね求め、(2節)

また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです。(3節)

 

この詩篇記者はダビデですが、このダビデの生涯をかけて貫こうとする神様への情熱に共鳴し共感し私たち自身のうちにもダビデをそうさせた神の霊を宿すことが、最初に詩篇119編を取り上げた理由です。われわれセブンスデー・アドベンチストは、世の終わりに我々の信仰に戦いを挑む第七日安息日を守れなくする法令が、アメリカで出されそしてすぐに全世界的に出されることを知っていますが、その法令(日曜休業令)が出された後でさえ、それでも神様の戒めを守りたい、守ろうという情熱のもので、119編を見たとき、上記の聖句は、どんなに輝いてみえるでしょうか?

 

自分の生涯をすべて神様にゆだね、神様の定められた十誡を喜んで守る生涯は幸いです。

神様の言われた数々の言葉の証言に従い、誠心誠意、神様を探し求め、

それでいて誰に対しても悪を行わず、神様の定められた道を歩む生涯は幸いです。

 

皆様の信仰は、「第七日安息日を守るならお前には何も物を売ることはできない」と言われた時、それでも「神様の戒めを守れるわたしの生涯は幸いだ」と言うことができますか?その時に至ってもこのみ言葉が神様の約束だと信じる情熱がありますか?激しい苦しみの中で、み言葉によってあなたの心を支えるその力を感じとることができますか?詩篇119篇は、神の戒めが守れないような脅迫が起きたときにこそ、わたしたちを内から助けるみ言葉なのです。

わたしがこのブログを開設した理由は、イエス様の再臨を迎えるにあたり聖書の預言の学びについて今の時をどうすれば良いか悩んでいる人を一人でも多くサポートすることです。わたしが今まで聖書を学んできたことで、この終末の時代に役立つ知識を、できるかぎり多くの人とシェアしたいとかんが考えています。

これからしばらくの間、このブログでは、聖書の中にある詩篇119編についてじっくりと学んでいきたいと考えています。よろしくお願いします。