詩篇119篇4節

あなたはさとしを命じて、ねんごろに守らせられます。

 

さとしとねんごろという言葉が難しいですので、調べてみます。

さとしは英語聖書キングジェームスバージョン(以下KJVと略します) によるとprecepts です。

precept 【名】 〈文〉〔道徳的指針としての〕教え、教訓、処世訓 《法律》令状 

別の辞書で引くと:教訓、訓示、勧告 とあります。

ねんごろはKJVではdiligentlyで意味は、:〔人が〕勤勉な、熱心な、精を出す、精勤する〔作業などが〕入念な、丹念な   

ねんごろという言葉にあたるヘブル語は「原語で聖書検索」で調べると278か所ありveryあるいはgreatlyあるいはexceedinglyあるいはexceedingあるいはsoreあるいはmuchあるいはmighty あるいはlouderあるいはgood あるいはgreat・・・他にもあるかもしれませんが、引用はveryが一番多いですね。その程度が通常より大きいことを表現する言葉のようです。

というわけで、詩篇119:4を私訳しますが、

「あなたは教訓を命令され、(その教訓を)熱心に守らせられます。」

それでは、その教訓とはなんだろう?と考えるとやはり十誡にいきつきます。

事実この単語は原語で聖書検索では24か所でてくるのですが、statutes(法令)、commandments(十誡、戒め)と訳されているところもあります。

「あなたは十誡を命じて熱心に守らせられます。」

としてもよいかもしれません。

 

わたしは、この神様の熱心さについて思い当たることがあります。

わたしは二人のかわいい娘の親ですが、もう中学生と高校生なので、ダメだしする際には、その人格を尊重し、最終的な決定権は彼女たちに任せる方法で、なぜわたしがそうしてほしいのか、それをしたらどうしてだめなのか教える方法でないとうまくいかないことに気付きました。考えて見ると、わたしの神様もわたしを尊重してくださり、聖書を通してダメなものはダメだと教えてくださり、それでいて完全にわたしの自由を尊重してくださるのです。本当に危険なことは、さまざまな方法を通して、わたしのやりたいそのことをできないようにし、よくないことであっても経験した方がそれをやめるのに近道になる場合、或いはダメであってもその思いがあまりにも強い場合、させてくださる場合があります。そんなとき、当然みじめなつらい思いをするのですが、反省し悔い改めてその道を離れるなら、すぐに神様は祝福してくださいます。神様はそのように「さとしを命じてねんごろに守らせられ」るのです。

 確かに、人が学習するのは成功よりも失敗した時ですが、罪に関していうなら、その失敗が致命傷になることも多々あります。クリスチャンは自分の欲望に負けて罪を犯しますが、神様はそのたびに、もし立ち返って聖書を読むならどこで間違えて、どう立ち返ったらよいのか教えてくださいます。もしかしたら、ダビデはここで自分が神様の道から踏み外れてしたときのことを思い出し、その時、神様がどのようにして正しい道に導き返してくれたか思い出していたかもしれません。もしそうであるならダビデは神様の道から外れることがどういうことか学びました。そして、最終的に神様が自分に対する愛からすべての言葉を出されたことに気付くのです。神様に従うことがいかに幸せなことか悟るのです。ダビデは、十誡が前にもまさって好きになったはずです。そのようにこの聖句を読んだ時、わたしは懐の大きな取り扱いをなさる神様のことがもっと好きになりました。

あなたはさとしを命じて、ねんごろに守らせられます。

 どうですか?ダビデの情熱が心に迫ってきませんか?